6月13日(月)ばぁばの家にとりあえす帰り、ばぁばを乗せて、病院に向かう。 なぜか会社を出る時は、パニック状態だったのに ばぁばの家に着くと落ち着いていた。 ばぁばの家に着くまでの30分間、車を運転しながら 自分を落ち着かせようと必死だった…。 これから来る未来に希望という文字はもうなかったのに ただひたすら奇跡を祈った。 お父さんを助けてほしい…。ただそれだけ。 じぃじの病室に一番近い駐車場にとめた。 ちょうどパパもきた。 3人で病室まで走った。 病室に入った時、じぃじはベットにすわった状態で 酸素マスクをつけてこう言った…。 「大丈夫や、呼ばなくていいって言ったのに…」 SPO2(血中酸素)が70台でした。 普通の人は98とかなのに…。 辛そうでした。苦しそうでした。でも何もできなかった。 先生からお話があり、どうされますか?と…。 辛さをとるには、眠らせるしかありません。 麻酔をかけて、本人の苦痛をわからなくするしかないと。 でもその麻酔によって、呼吸抑制があって、死を早めるかもしれないと。 決断の時がきました。 ばぁば、パパ、私とよく話し合っていたこと。 じぃじの苦痛をできるだけとってあげよう…。 私たちは先生にお願いしました。 「じぃじを呼吸苦から開放してあげてください。ただケイタが来るまで、麻酔を入れるの待ってほしい。ケイタに会わしてやりたい。」 パパにすぐ保育所にお迎えにいってもらいました。 40分くらいでケイタがきました。 じぃじとケイタは手を握り合ってました。 何も言わなくても2人には何かわかっていたのかもしれません。 そして点滴の中にドルミカムを少しずつ入れていきました。 看護婦さんが来た時、じぃじが言った言葉…。 「しんどい、もう死にたい!嘘、死にたくない。」 今もこの決断がよかったのか、心に後悔として残っています。 私は私の手で父の命を縮めてしまったのかもしれない。 生きたかった父を私の手で…。 ばぁばは言いました。 「じぃじ、寝るのが一番よ。先生が寝れるお薬入れてくれたからね。 ゆっくり寝てね。」 じぃじはゆっくりうなづきました。 時間が経つにつれ、じぃじの意識が薄れていきました。 時々咳き込むと私たちが驚いてじぃじを見る。 すると、じぃじは私たちにむかって「ピースサイン」 大丈夫だということ。 父の意識がなくなったのは夕方だったでしょうか。 私たちは詰め所に呼ばれました。 昨日の話と、これからのこと。 先生たちは私たちに何度も謝罪されました。 ・父の前でモルヒネと言った事。 ・家族より先に他人に病状を説明したこと。 私は今までのこと、病院に対する不信感、すべてお話しました。 でもじぃじがこうなってしまった以上、病院を転院することもできない。 これからの病院の対応をみさせてもらうと言いました。 大勢の先生方、看護師さん皆さんが頭をさげていました。 私はこの時、先日感じていた怒りより 父を助けてほしいって思う気持ちが大きくなってました。 朝を迎えられないかもしれないと言われ ばぁば、パパ、私3人で泊まりました。 ケイタはパパのご両親に見てもらいました。 じぃじは3時間おきぐらいに意識が戻って、暴れました。 先生が言うには本人に記憶はないとの事…。 その暴れ方があまりにも壮絶で思い出すとつらくなります。 ばぁばは以後その光景がトラウマとなって、 今も精神的不安定になっています。 パパは冷静でじぃじを支えたり、必死にそばにいてました。 麻酔も完全にきいてきたのか、朝方になるにつれ じぃじは眠ったままになりました。 そしてこの状態が1週間続いたのです。 |